いろいろなきっかけがあって、親の家を片づけることになった。
親の家といっても、両親をどちらも失っているので、「親の荷物が残っているわたし(と妹)の家」ということだ。
父と母はどちらも61歳で亡くなったし、その年齢ではまだ死ぬなどとは思っていなかったわけで、ましてや母は癌が発見されてからひとつきで還らぬ人となったため、親の家にある荷物の量といったら、たいへんなものだ。
彼らが残した持ち物の多さを目にするたびにわたしは亡き親に怒りや恨み、何とも表現しづらい虚しさを感じたうえに、自分を恥じた。
自分を恥じるというのはなぜなのか。長い間わからなかったのだが、どうやら、自分が死ぬ時のことを想像するなかで、わたし自身の持ち物の量の多さを恥じているということなのだった。そういう風に考えることは別に不自然なことではないとは思うのだが、死んでしまった親の荷物の多さによって生と死というヘヴィなテーマに支配されるときの感情については、相手を選ぶことなく話せる話題ではありませんでした。
そういえば、小さい頃にも親のせいで途方に暮れたこと、妙案を出して親を狂喜乱舞させたことがよくあった。子どもとはもういえない年のわたしだが、親の家を片づけることを決心した時には、あの頃のような気持ちで途方に暮れるとともに、親を見事に感激させた気がした。
亡き親への極端な罪悪感が消えると、子どもというオトナは次の段階に育つのだ。

Photo taken by ami_harikoshi
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