「寡婦」「未亡人」「後家」という言葉がタイトルに使われているエンターテインメント小説だった。 エド・マクベインはもちろんアガサ・クリスティでさえ手にしたことがない母にしてみれば、自分の立場を表す文字に何らかの意味合いを感じて辛い思いを抱いたのだろう。これは娯楽小説であって深い意味はないと説明しても、ぼんやりと頷くだけですっきりした表情にはならなかった。
母はもともと、いろんな現象から何らかの意味を見出し、祝福や警告のメッセージとして解釈するところがあった。小さい頃はその解釈に不思議な力を感じたものだったが、成長してからは人生に起こる辛い出来事をごまかす「こじつけ」のような気がしてきて、母の口からこの手の話が頻繁に出たときは、話半分にきくようになっていた。
父のガンが見つかり、初めての入院治療がはじまったときには、「この夏、お庭にスズメバチの巣ができたんだけど、これはパパのガンとイメージが同じだわねぇ」と、ふたりで行った見舞い帰りのバスのなかでつぶやき、わたしを激しく立腹させた。
父の三回忌がすんだあとすぐ、母自身のガンが見つかったときには、「実はあなただけに話しておきたいんだけど、この前、ゴムの樹を庭におろしたら、すぐに枯れたのよ。20年以上もうちで生きて、何度も私たちと引っ越した家族の樹なのにねぇ」と残念そうに話した。
父は仕事が趣味のような報道人だったが、海外ミステリーと日本の時代小説を読むことは愉しみのひとつで、吐き気や嘔吐で苦しい化学治療のときにも文庫小説を手放さなかった。
あの夏は、全国でもスズメバチの巣が増えているというニュースが流れていた。
長い間、植木鉢に入っていた植物をいきなり地面におろすと、あっという間に枯れることがある。
いま、わたしは、両親の蔵書の全てを片付けようとしている。
ざっと見て、その数、6千冊。
母が父の蔵書から何かを感じ取ったように、わたしも嬉しい発見や苦痛を否応なしに味わいながら、いろんなことを考えることになるだろう。悪いツボにはまったときには自分をなぐさめるために、母のような「こじつけ」思考をはじめてしまうかもしれない。
だけど、父と母のもとに生まれ、ものを読んだり書いたりしてこれまで暮らしてきた自分なりに、この本たちをなるべく丁寧に処分していきたいと思う。 それは、父にも母にも最期までうまく伝えられなかった、わたしからの別れの挨拶になるような気がしている。
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